チロルの空想世界

オリジナル小説を載せてます。良かったら読んでいってくださいね。

アコルト(36)

「たくさん洗濯したのね」

 

カーテンレールと部屋に張った紐にずらっと並べて部屋干ししている小野の服を見渡して、平野さんが言った。

 

変に思われただろうか。

 

「ちょっと洗濯したい気分になったんですよ」

 

慌てて取り繕って買ってきた服をクローゼットに押しこんだ。

 

「冬はなかなか乾かないでしょ、乾燥機ほしいわよね」

 

平野さんは特に気にする様子もなく鍋をコンロに置いて温めなおしはじめている。

 

良かった……

 

あと何か隠さなきゃいけないものはなかったか。

 

小野はまだ帰ってこないよな。あいつがまた血のついたような格好で現れたら全てが元の木阿弥だ。

 

平静を装おうとしたが内心いっこうに落ち着かなかった。

 

こういうとき無表情であることは助かる。

 

下手にしゃべらず黙ってコタツに入っていれば違和感はないだろう。

 

「そうそう、通り魔の話し聞いた?」

 

二人分のお皿を手に持って平野さんが入ってきた。

そして、コタツに入り込んだ。

 

今日は一緒に食べるつもりなのか?

 

なんでこういう日に限って長居するんだ。

そして、どうしてその話題を出してくる。

 

「今度は女子高生が襲われそうになったんですって。その子は走って逃げたらしいけど……怖いわ」

 

今日はロールキャベツだった。

 

半分に切ろうとスプーンで上から押し付けたがなかなか切れない。

 

「颯ちゃんは今日も遅いのよね」

 

思わず力が入ってスプーンを押してしまったせいで、お皿と擦れて不快な音が出た。

 

「ナイフいる?」

 

「あ、いや、問題ないです」

 

俺はもう切らずにまるまる一個口の中に押し込んだ。

せっかく美味しいであろう料理ももう何の味もしなかった。

 

その姿を見て平野さんはふふふと笑った。

 

「……颯ちゃんのクリスマス発表会、やっぱり出席しようかな……」

 

一瞬真剣な眼差しをこちらに向けたが、すぐ視線をそらして最近入ってきた派遣の女の子の愚痴に話が変わった。

 

女性が感情で動いているってことくらい俺でも分かっている。

 

こういう場合は指針を示すと逆に喧嘩になる。

優しく同意して安心させてあげればいいのだ。

 

ひとしきり話すと平野さんはすっきりした顔をして帰っていった。

 

女遊びしていた頃の無駄な時間にもこうやって活かされること学んでたんだな。

 

冷蔵庫を開けると。ちゃんと小野の分がタッパーに入れてしまわれている。

 

小野のこと相談しても良かったかな……

 

まだ暖かい料理が淡い後悔を俺の中に落ちていった。

 

 

 

アコルト(35)

何度も後ろを振り返り、つけられていないことを確認しながらマンションへ急いだ。

 

これ、俺が不審者だな。

でもそうしないと落ち着かない。

 

 ずっと誰かに非難されているような疎外感がついて回った。

 

マンションにつくと、大家さんの所に寄らずにまっすぐ自分の部屋へ向かった。

 

洗濯カゴに入っている小野の服を引っ張りだして他に血がついていないか丹念に調べた。

あのジャケット以外には血らしきものは見当たらなかったが、もう既に洗濯してあった数枚の服も合わせて全部洗濯機に押し込んで洗剤を何杯も入れて回した。

 

あとは……。

 

頭を掻きながら部屋を見渡してあいつの私物を探した。

 

相変わらず小野が家に置いてあるものはほとんどない。

 

あるといったら服と、日用品、俺がやった楽譜の一部。

 

ほとんどの物はあの大きなリュックに入れて持ち歩いているんだ。

 

 

あ、靴は。

靴には血がついていなかったのだろうか。

 

そう思って玄関に視線をやったが、あいつが持っている靴は一足しかなく、それを履いて仕事に行ってしまっている。

 

 

くそっ!

 

今日はどこで仕事だ。

現場か、バーか、他の仕事か。

迎えに行くにしても職場の場所が分からないじゃないか! 何を考えてるんだ俺は!

 

落ち着け。

小野は電車を使わないはずだ。

警官たちが駅前でずっとはっていてくれれば小野と鉢合わせすることはない。

 

 

帰りを待っていると一分一秒がすごく長く感じられる。

部屋を右往左往していたが、耐えられなくなって外に出た。

 

あいつの服を買ってこよう。

いつもと違う格好をさせて外見を変えるんだ。

 

靴のサイズはいくらだ。あと…あ、カラー剤も買っておこう。

髪を染めたら大分雰囲気変わるからな。出来れば髪型も変えたい。

 

安い服の量販店やドラッグストアを回り、適当なものを買い漁った。

かなりの出費だったが致し方ない。

 

買い物袋が一つ増えるごとに俺の中の安心感が増していった。

 

 

 

大量の荷物を持ってマンションに帰ると平野さんが丁度ご飯を持ってきてくれる所だった。

 

「あら、すごい量ね。何買ったの?」

 

「ええ、まぁちょっと……」

 

 

平野さんには話していいだろうか。

ふと、仲間を増やした方が安全な気がした。

 

メガネをかけた化粧気のない顔をじっと見つめて相手の反応に思考をめぐらしてみる。

 

平野さんだったらどう答えるだろう?

一緒にアリバイを探してくれるだろうか。

それとも、警察に通報する?

 

こちらを見返す顔が、白にも黒にも変わる。

 

平野さんは優しいが真面目だ。

時折冷たいと感じるくらい突き放した態度を取ることもある。

 

駄目だ。

 

言えない。

 

 

 

 

アコルト(34)

物音で目が覚めた。

 

時計を見ると針は6時前指している。

 俺は洗濯機の前でうずくまったまま寝てしまっていようだ。

 

ああ…体の節々が痛い。

 

変な格好で寝ていたせいか、風邪をひいてしまったのか。

 

重い体を起こして部屋を覗くと、 小野がクローゼットに上半身つっこんで漁っているところだった。

 

「なにしてるんだ」

 

俺の声を聞いてぴょこりと可愛い顔を出した。

 

「あ、律。なんでそんなトコで寝てたの? ってか俺のジャケット知らない?」

 

「洗った」

 

「え!? 洗ったって俺アレしか上着持ってないんだよ?」

 

大きな目を一層大きく開いてこちらを見てくる。

俺は黙って壁にかけてある自分のダウンを取り、小野に押し付けた。

 

「これいいの? うわっ暖かい!」

 

袖を通してはしゃいでいる小野の顔が見れなかった。

前までならこいつのこんな姿を見るのが好きだったのに。

 

背中を向けて洗濯機の蓋を開けたり閉めたりしながら

時間大丈夫なのかと外出を促した。

 

小野が慌てて仕事に出かけるとどこかホッとした気持ちになった。

 

今はあいつのことを考えるとお腹のあたりがゾワゾワする。

息がつまり嫌な汗がでる。

 

ただ軽い喧嘩をして帰って来ただけかもしれないだろう。

あいつのポケットにはナイフ以外にも色んな物が入っていた。

俺が今思っていることは何の確証もないただの推測だ。

 

くそっ!

 

思い切り壁を殴った。

 

何を疑っている。証拠がないなら探せばい。

あいつが通り魔じゃないっていう証拠を。

 

そうだよ。そうだ。

俺はジャケットを干して家を出た。

 

まずは大家さんたちから話を聞こう。

被害者はいつどこで襲われた、その時小野が誰かといればアリバイは成立する。

上手く行けば真犯人が見つかるかもしれない。

 

ドアを閉めると右手がジンジンと痛みだした。

痛みが遅れてやってくるものだ。

 

 

 

バイトを終えると大家さんのところへ向かうことにした。

今日は変なところで寝てしまった上、ダウンも貸してしまったせいで熱っぽい。

一応クローゼットの奥にしまっていたPコートを着てみたものの、寒風は完全には防げなかった。

 

やばい…風邪ひいたかも。

 

鼻をすすりながら駅の階段を下りると後ろから呼び止められた。

振り向くと黒いトレンチコートを来た二人の男が立っていた。

 

「最近この辺で通り魔事件が発生してましてね。ちょっとお話聞かせてもらっていいですか」

 

男たちは警察手帳と思われるものをポケットから出して見せてきた。

 

け、警察?

 

その後、氏名、生年月日、電話番号など個人情報を根掘り葉掘り聞かれた。

 

どうして俺の情報を色々聞くんだ?普通聞き込み調査でこんなに聞くものなのだろうか。

 

一方的に聞かれてばかりでは分が悪い。こちらも犯人の情報がどこまで入っているのか聞き出そうとすると、A4のチラシを渡された。

 

そこには手書きの男の全身図が中央に書いてあり、身長160センチくらい、痩せ型、20代くらいの男、モスグリーンのジャケット、ジーンズ、スニーカー と詳細情報が両サイドに分かれて載っていた。

 

これが犯人?

これだけ見ると……完全に……

 

一瞬の俺の不安な表情を逃さなかったのか、相手の鋭い目が光った。

 

「心当たりはありますか」

 

「あるわけないじゃないですか!」

 

反射的に大きな声で否定してしまった。

 

「こんな男いっぱいいますし。分かりませんよ。探すのも大変ですよね。早く捕まるといいですね」

 

ぎこちなく笑って足早にその場から去った。 

 

……怪しかっただろうか。

 

歩きながらまだ心臓がバクバクと高鳴っていた。

 

 

 

 

アコルト(33)

「やっぱアクセサリーがいいんじゃないですかぁ? 指輪とか! 私もほしい」

 

「いや、だからそういう相手じゃないんだ」

 

人の話しを聞いていたのだろうか。否定してもなお後輩は意地悪な視線をこちらに向けてくる。

もういい、他の奴に聞くよとその場から立ち去ろうとすると、後輩は慌てて腕にすがりついて甘えた声を出した。

 

「友達なら無難にスイーツとか……実用的にいくならハンドクリームでもいいんじゃないですかぁ」

 

なるほど。

それはいいかもしれない。

改めて今流行のスイーツ店と、いい香りがするというハンドクリームを教えてもらった。

 

これでクリスマス会の準備は出来た。

早くその日が来るといいな。

 

 

その日の夜。

今日は帰ってくると言っていた小野が0時回っても戻ってこない。

いつものことではあったので、たいして気にせず眠る準備をしていた。

 

すると、2時前くらいに玄関のドアが開いて重々しい足音が聞こえてきた。

足音を聞けば分かる。

だいぶ仕事で疲れているようだ。

電気をつけて玄関の方に視線を向けると。暗い顔をした小野がふらふらと部屋に入ってきてベットに倒れこんだ。

 

「おい、ジャケットくらい脱げよ」

 

小野は「んー」と唸って動く気配がなかった。

仕方ないので起き上がって小野のジャケットを引っ張って脱がしてやった。

すると袖の所に黒いシミがついている。

 

ただでさえ着古して汚れているジャケットだったが、こんなシミは前までなかったと思う。触ってみるとまだ水分を含んでいてベットリと指についた。

 

これは……血だ

 

また喧嘩してきたのか?

 

「お前怪我はないのか」

 

うつ伏せをひっくり返し、腕をまくってみたが傷のようなものはなかった。

 

……相手の血だろうか

それならいいのだが

 

いや、良くはないが。

 

とりあえず、染みこまないうちに洗ってしまいたいのだが、これは家で洗えるのか?

洗濯方法が書かれたタグを探していると、ポケットからガムやら鍵にまぎれて万能ナイフが落ちてきた。

 

嫌な予感がした。

 

ーー小野には怪我がない。

ーー相手の血?

 

そういえばこの前、近くで通り魔が出るという話を聞いた。

仕事があるからといって深夜まで帰ってこない小野。

 

まさか……

 

酔っぱらいに絡まれた時の小野の顔が浮かんだ。

 

暗い目をして

 

俺の知らない

 

小野の顔

 

 

俺は急いで風呂場に走り、ジャケットに漂白剤をかけて何度ももみ洗いをした。

 

違う

 

違う

 

きっと違う!

 

濡れたままのジャケットを洗濯機に突っ込んで念入り洗いを強く押した。

ガタガタと洗濯機が大きな音を立てて回る。

そこに背中を預けて俺はうずくまった。

 

前に小野は少し自分のことを教えてくれた。

 

でも

 

俺はまだ小野のことを知らない。

 

 

 

アコルト(32)

「はじめて声をかけたのは、あの事件が起こった時だったね」

 

それは小野が酔っぱらいに絡まれた日だ。

考えてみると高岡さんたちと話すようになってまだ数ヶ月しか経っていない。

もっと前から知り合っていた気がしていた。

 

「正直家に来てもらったのは緩和剤になってもらいったかったからだ。妻と二人きりの家は陰気で重苦しかったんだよ……最低だな」

 

「……でも、俺もそういう状態だったらどうしたらいいか分からずに逃げてしまうと思います……仕方ないと思います」

 

ありがとうという代わりに彼は小さく微笑んだ。

 

「私の失敗は無知だということだ。助けるにも方法を知らないといけなかったんだよ。そうじゃないと返って相手を追い詰めてしまう。それに何も一人で請け負う必要はないんだ。それを君たちが教えてくれた」

 

俺は何もしていない。

君たちと言ってくれたが、俺は入っていないはずだ。

 

颯太くんは人の懐に入るのが上手いね。もううちの子のようだよ。平野さんは妻の友達として、私には言えないような話が出来てるみたいだ。そして二木くんも」

 

こちらを見てにこりと笑った。

 

「二木くんには私が助けられてるな。君には話やすいんだ」

 

 

そんなこと言われたのはじめてだ。

 

いつも目つきが悪いせいか怖がられることも多いのだが、話しやすいと思われていたなんて。

なんだか胸のあたりが暖かくなった。

俺がいままでしてきたことを知っても高岡さんはそう言ってくれるだろうか……。

 

今までの俺は糞みたいな生活をしていたと改めて思った。

当時は楽しいと思ってたんだ。

でも今高岡さんたちと知り合って間違っていたと気付かされた。

 

人はたくさんいるけれど、自分にとっていい影響を与えてくれる人もいればそうじゃない人もいる。

それを見極めなきゃいけないな。

俺はこの人達を大事にしたいと思う。

 

二人で他愛もない雑談をしながら家に帰った。

気持ちが澄んだような清々しい気分だった。

 

 

 

クリスマスプレゼントをどうしようか悩むところだ。

小野には楽譜がいいだろう。

高岡さんはお酒かな。

奥さんと平野さんはなにがいいだろう。年の近い女なら思いつくのだが、二人はどういうものを好むのか分からない。

 

色々考えているといつも付きまとってくる後輩の女の子が話しかけてきた。

 

「先輩ー何考えてるんですか?」

 

上目遣いで顔を覗き込んでくる。

あざとさが丸分かりで鬱陶しい。

 

「社会人の女の人ってどんなものもらったら嬉しいのかな」

 

「え。先輩って年上が好きなんですか」

 

「そういうこと言ってるんじゃない」

 

「えー。社会人って何歳くらいなんですか?」

 

「20代後半‥‥30手前くらい」

 

「おばさんじゃん! 先輩何狙いですか」

 

そういって後輩はきゃっきゃと笑った。

 

アコルト(31)

 クリスマスに向けて資金調達をする必要が出来た。

そのため単発バイトを入れ、バイトに明け暮れる日々が続いた。

 

そんなある日、ヘトヘトになった体で最寄り駅を降りると高岡さんと会った。

 

「お、久しぶりだね」

 

「あ、ご無沙汰してます」

 

高岡さんに会うにはあの日以来だ。

一緒に帰路につき、お互いの近況について話していたのだが、話の流れから、奥さんのことに触れてみた。

 

「奥さん、大丈夫ですか?」

 

「ああ、おかげさまで。最近はちょっと良くなってきててね」

 

「俺あの日まで奥さんが体調悪いってこと知らなくて……」

 

「え? そうだったのか? いつも君と颯太はセットのつもりでいたから。そうか、それは困らせてしまったかな」

 

君たちはセット。

そんな風に見えていたのか。

みんなが思っているほど俺と颯太は話をしていないから情報の共有がないのだ。また颯太と話す時間を作らないといけないな。

 

「いえ、いいんですが。ただまだ詳しくは分かってなくて」

 

颯太にも詳しくは話してないんだが。せっかくだし少し聞いてもらおうかな」

 

時間はあるかいと聞きながら近くにあった自動販売機の前で財布を出してコーヒーを買ってくれた。

自動販売機の隣にあるポールに二人で腰掛けて時折通り過ぎる車を眺めた。

 

「妻は出会った頃から生真面目な性格をしていてね。落ち込みやすい傾向はあったんだよ。結婚した当初もその性格が顕著に出ていた。毎朝私より早く起きていて、家はいつも綺麗に整頓され、ご飯も一度も同じメニューは出てこなかったよ」

 

高岡さんは深い溜息をついた。

 

「はじめは私もいい奥さんをもらったと感謝していたんだけどね。段々そのことが当たり前になってしまっていって。家を任せられる分仕事に打ち込めてそれなりに成果も出せていた。ただそれがますます妻を追い詰めていっていた」

 

缶コーヒーを握りしめている両手は血管が浮き出ていて、大人の男の手をしていた。

 

「そのうち子供ができたんだけれど、流れてしまってね……。そのことがなんとか踏ん張っていた妻の背中を押してしまった。情けないことにそれでも私は気づいていなかったんだよ。ある日妻が二階から飛び降りてはじめて知った。鬱になっていたってことに」

 

流産に飛び降り。

重たい話に喉が詰まった。

そういえば高岡さんの家には子供がいてもおかしくない年齢なのに子供がいなかった。

流れてしまっていたのか……。

 

「そのことを知ってからは全力でサポートする気でいたんだ。病院にも一緒に通って、治すため必死になったよ。でもそれがまた妻を追い詰めていっていたんだ。

 

色んな事をしてみたよ。試せる限りはね。でも何をしても悪化させるだけで一向に良くならない。自分でもどうしていいか分からなくなってしまってね……。徐々に朝早くから仕事に出かけて、仕事にのめり込むことで妻から離れるようになっていってたんだ……」

 

毎朝早くから家を出て出勤する高岡さんの姿を思い出した。

仕事熱心な人だと思っていたが、そういう理由があったのか。

 

「そんな中で君たちに会ったんだ」

 

 

 

 

アコルト(30)

「久しぶりに家族で食事したって感じでなんだか照れくさかったです」

 

「たまにはああいうのもいいわね」

 

高岡家から自分たちのマンションに帰るまでの短い道すがら、ゆっくり歩きながら俺たちは話した。

 

「そういえば奥さん体調は大丈夫なんでしょうか。食事は一緒に取りましたがまだしんどそうに見えたな」

 

「そうねぇ……。ああいう病気は波があるからねぇ」

 

「ああいう病気?」

 

「あら、聞いてないの?」

 

 平野さんは意外といった感じでこっちを見た。

 

「奥さん欝なんだって」

 

小野がまるで当たり前かのようにそう言った。

 

ああ…また俺だけ知らないことなのか。

一体どれくらいのことをみんな共有しているのだろう。

 

しかし、それを聞いて台所にあった調味料や冷蔵庫の中身に合点がいった。

 

それで小野が家事をしようとした理由も、平野さんが他人の家で料理をすることに戸惑わなかったことも納得がいった。

 

 小野が合鍵を持っていたのも、高岡さんが仕事で忙しい際、もしものことが起こったらすぐ駆けつける相手が必要だったからかもしれない。

 

それなら俺だって……。

 

そう思ったがいざという時何をどうしたらいいのか、知識もなければ自信もなかった。

 

小野は外見とは違ってどこか大人びていて頼りになる雰囲気がある。

平野さんだって寄り添って支えてくれるだろう。

だが俺には……。

 

人生経験の差なのだろうか。

それとも人間性の問題なのだろうか。

 

俺は黙って俯いた。

 

 

 

 

クリスマスが近づいていた。

小野のピアノお披露目は奥さんの体調を見つつ、クリスマスに行うことになった。

平野さんは予定があるから来れないと言っていたが、ケーキや料理は作っておくと張り切っていた。

 

俺は何をしようか。

プレゼントでも用意したほうがいいかもしれない。

シャンパンでも買って行こうか。

 

去年は乱痴気パーティのようなクリスマスをすごした。

先輩たちと適当に引っ掛けた軽い女たちをマンションに連れ込んでお酒や軽い薬でトリップして騒いでいた。

当時はそれがかっこ良くて楽しいと思っていたのだが、今から思えばただ地に足のつかない寂しいだけの生活を送っていた。

 

居場所は間違えてはいけないな。

そうじゃないと自分で気づくまでただただ堕ちていくだけだ。

 

今年はみんなに出会えて少しはまっとうになっただろうか。

願わくばこの場所が壊れてしまわぬように……。

 

寒空の下俺は静かに祈った。